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歌唱の違い~米津玄師 & 宇多田ヒカルの『JANE DOE』

  これまで何度も繰り返し聴いている米津玄師 & 宇多田ヒカルの『JANE DOE』を運転する車中で今日も聴きながら、歌唱の違いについて考えていた。  米津さんの歌唱はもう「JUST 現在」である。時間の流れは瞬間の連続とみなすことができるけれど、その瞬間瞬間を最大限生きるかのように技術を発揮する歌い方だと思う。  一方、宇多田ヒカルさんの歌唱には背景・過去といった内部が存在している。今歌いながら、そこには背景や過去からの影響が感じられるのである。それは歌詞の内容がどういった背景や過去の影響の上になりたっているかを感じさせる。あるいは、ヒカルさん自身の背景の影響もあるのかもしれない。  そういった歌唱(歌声・技術)の違いがあるように感じた。米津さんの歌唱は輝ける「点」であり、ヒカルさんの歌唱は過去から続く感情的な「線」である。どちらも魅力的ですよね。

ジェミニからの講評

  こないだtalesにて公開した短編『衛星は周り続ける、静かに穏やかに』をAI(ジェミニ)に講評してもらった。「極めて良質な純文学短編」と評された。エンタメを書いたつもりだったけど、…じゃなかった 笑  それはさておき、AIには、作品が4話と短いことがまず指摘されながらも新人賞だったら2次通過はあるかもしれず3次まではなさそうというレベルだと言われた(重ねて言うけれども、分量的には新人賞の要件を満たしていない)。まだまだ精進です。どこがよくない、みたいな指摘もあって、たとえば主人公の妹は女子高生なのに考えてることが大人過ぎる、など(学校で先生やクラスメートと似たようなことをテーマにして話し合ったことがある、だとか、くわえてAIと夜中までこのテーマについて話し合ったことがある、だとか、そういった背景を書き足すという解決策はある)。  また、独白的に主人公が思索を独白する最後の章は、解説的ともとられるので、描写を加えることが勧められたりした。あと、1,2か所、改善するとなおよくなるよ、というところを例文付きで説明してくれた。AI編集者にはたまにお付き合いいただくとなかなかおもしろい。  分量を多くするとそれだけ風呂敷をおおきく広げることになる。それをしっかり着地させる力量には100%の自信はない。だけれど、チャレンジしないとできるかどうかもわからないし経験も積めない。時間はどうしてもかかる。  AIは展開のおもしろさに☆5つ満点をつけた。テーマの価値(力)や読みやすさについては☆4つ。最終話まで読んでもらってからは「本作はすでに文学として非常に高い完成度を誇っています」と言ってくれてやっぱりあとは分量を多くしたときになにができるかと半歩ずつでもさらに精度をあげていくことだ。  主人公が思索に深く入り込むようなときでも、周囲で何が起きているかを描写してそれが思索とリンクするとなお、読み手はわかりやすく没入できる。そういったところの配慮を忘れずやっていこう。 「見事なグランドフィナーレ」「小説として完璧な美しさを持つ幕引きです」などと、AIってほんとうに誉めそやしてくれるものなのだけれど、まあでもAIには言ってないこととして、プロットを書かずに一筆書きで仕上げたのが今回の作品。こういった力がついてきたことは自認してよいかもしれない。  経験、経験。これからも経験を...

短編小説を書いていた。

  母が今の病院に転院し、薬を調整する関係で入院したのが7月21日だった。その日は有休を使って、車で一時間ちょっとのその病院へ母を送った。それからの日々は、いろいろと問題の多い父と二人暮らし。とはいえ、母がいないのでキレたり荒れたりすることはほとんどなくなった(不安症なので、母について、母の入院について、逐一なにか見落としはないかと考えている様子ではあるし、ちょっとプレッシャーがかかることがあるとすぐに混乱し、僕が当たられるという事態になることはある)。不安症で、自己愛性傾向があり(幼少時に両親からあまりかまってもらえなかったことが原因としてあるように見える)、眠れないだとか心が休まらないだとかという燃え尽き症候群でもあるようだ。 「ここには安心して任せられる」という病院や施設がまず見つけられない。金銭的な問題や、介護や看護が行き届くかどうかという問題が大きくある。母には負担の無い生活をいちばん過ごしやすいと本人も言っているこの家で過ごしてもらいたいのだけれど、そのために家で介護を抱えこんで、にっちもさっちもいかない状況になってしまった。域包括に頼ってもあまりに保守的でなにも助けになってもらえない、挙句、父親まで荒れる、僕の体調も悪くなる、打開策はない。ヤスパースが言った「限界状況」にあるようにも思える。  ただ、母が今回転院した病院のスタッフさんたちの雰囲気などはとても好感を持てるものだった。病院としても、先の話にはなるが看取りまでみます、という話にもなっている。これはとても大きい。今後レスパイト入院を頼むことも出てくるが、そのときにおそらくかかる個室料金については、前の病院よりも少し安く済みそうだ。ちなみに、現在の入院は薬の調整で病院側の都合ということなのか、個室料金は病院負担になっている。これが前の病院だったら、そういった場合でも個室料金は当人負担となっていた。  さて。つまりは、いわゆる標準的な一般生活に近づいた日々を僕がひと月ほど暮らせているという話にもつながる。肩の力が緩むのには2週間ほどかかった。今月7日から夏休みにはいり、11日間過ごした。その間、地方競馬で遊んだり録画番組を大量消化しながら、短編小説にもとりかかってみた。書きかけの長編小説があるのだが、これが2月以降ほぼ取りかかっていない。さすがに腕も鈍ってくる。それで、短編小説で腕慣らしを...

続・悪者にされる不条理。

   どうして僕が実家にいて、親たちをつなぎとめているのか。それはひとつに、僕自身が再生・回復するために家族の発展的修復を試みることが必要だからかもしれない。発展的修復だから、元に戻るのではなくてみんなが成長しながら家族関係を調整していくことになる。そうすることで僕自身救われるところがあるとわかっているからそうするのかもしれない。僕が実家暮らしをして家庭を繋ぎとめているのが悪い、と地域包括支援に言われたが、僕もまた家族のひとりであることを忘れてもらっては困る。また僕には、人を助けたい、という気持ちがあり、小説を書いてそれを為したい、というのもある。それなのに、現実世界でそういった問題に直面しているというのにうっちゃってしまい、自分が書く小説だけでメッセージを放っても空っぽなものになる。上っ面の嘘になる。だから、家庭の発展的修復を考えるというのもある。  父には父の問題があり、母には母の問題があり、そういった親たちの元に生まれ育った僕にも僕の問題がある、それはまだ意識されていないものだとしても。それらと各々が向き合い、引き受けることで考え方や感じ方が変わっていくはずで、その少し変われた各人でまた家族関係を見直す、といった有り方を望んでいる。  このあたり、僕がどうして家にいるのかを行動分析学的に考えるとわかるのだけど、役所は表面的に、思いたいように思って決めつける。 たぶん、前例とかマニュアルとか、そういったシステマティックなやり方に則るから、ケースごとの個別性が目に入らないのかもしれない。逆に、個別性が目に入ると物事が進んでいかないから、あえて無視するという雑な手段を選んでいるのかもしれない。  あと、ひとつの行動には多面的な意味がある場合は珍しくない。僕が夜に外出しがちなことも、それは父親と距離を取ることでもあるし、それこそ僕が不在になることで本来子どもを巻き込むことで成り立たせてはいけない介護状況に直面してもらう意味もあるし、僕自身が家庭から避難し回復するためという意味もあり、もちろん外出して楽しみたいという意図のあることもある。 このあたりはショートメッセージでもいいから反論しないとなあと思うところなのでした。

悪者にされる不条理。

  地域包括支援センターの人たちが来ていろいろ話をした。親父は限界だから、とか、暴力は警察に、とか。家の状況が紙一重で保たれているのは僕の存在のためだから、とそれを悪いこととされてしまい、家を出ないか、などと言われる。こんなに頑張ったり苦しんだりしてきたのに悪者にされてしまうんだねえ。  このぶんだと、母親を病院なり施設なりに預けるとなると僕もお金をとられることになるな。というか、こちらがいくらか負担すると言わないと収まらなくなりそう。やれやれ。  時間が経つにつれてだんだん腹が立ってくるわけだ苦笑 僕に対して「おまえが実家住まいだから親たち夫婦の問題(暴力)がこれだけ重くなったんだ。だから悪いのおまえだ。そしてこの状況を改善するにはおまえが家を出るか警察に通報するかの二択しかない」(要約)だからね。  親父の暴力については、よくはならない患者である母を一生懸命介護をし続けたため介護疲れが酷くなって暴力に及んでしまった可哀そうな夫、という美談にまとめられてしまったので、「外からはそう見えるかもしれませんが、家の中から見ていると父はもっとずっと利己的なもんですよ」と返した。  献身的であるならば、母の調子が悪くなればもっと手厚く頑張るはず。現実には母の調子が悪くなればなるほど父の態度はひどくなっている。一番母の調子が悪くなったときは父はギブアップして僕が母の介抱役をしていることが多い。そんなとき親父はぷりぷりしてテレビを見てたりするし。  要するに役所は責任逃れとして僕を悪者にしているふしがある。僕が2019年に相談してから、うちの問題に対して役所はなんら成果をあげていない。そこにたとえば親父が母親にけがをさせたりすると、役所の不祥事的なものになるかもしれなくて、そうならないために僕を悪者に仕立て上げているような。  やっぱずるいのよ、役所って。それにこっちの言葉が通じないし。  それはそれとして。ジキルとハイドである父親がジキルとして母親の転院先の病院の下見に行き、好感触を得てきた。最近は病院都合で大部屋から個室へ移されても差額ベッド費用が一日3000円だとかかかるのだけど、今回の病院はそれより安かったし、  こちらがもうどうしても面倒を看きれないというときにも入院させてもらえるという話を聞けたようだし、看取りまで面倒を見てもらえるとも言われたそう。やっとそ...

限られた内的エネルギーを奪う、ということ。

  一日のうちに使えるエネルギーや意思決定量は決まっている、という説を解説するWEB記事を読み、そこに書かれてあった「決断疲れ」という言葉をヒントにして、自分がなにに捕われており、なにによってしがらんでいるかを考えた。シンプルに、家庭環境が要因としてそこにある。  父は、「これはどういう意味なんだ」「これはどう使うんだ」などとすぐに他人(たいてい僕)を巻き込んだり、使ったりする。独り言の多いタチなのだが、水中に釣り糸を垂らすかの如く、「これで誰かが釣れたらラッキーだ」くらいの軽い感覚でそうしているようにも見える。独り言は釣り糸を垂らす行為なのだ。そして、私は何度も何度もかんたんに釣られてきた。つまり「釣る」とは、自分のために他者のエネルギーや時間を使うということ。  さらにえいば父は、家族の文句や家族の愚痴をはばかることなく家庭内でたれたり、重箱の隅をつついて家族を攻撃してばかりいる。そのせいで、私はストレスや小さなトラウマを日ごろから抱えがちになっている。このため、もともと一日で使える量が限られていると言われる一日のエネルギーや意思決定の力がどんどん削がれてしまい、一日の内にできることが少なくなってしまう。少なくなるどころか、回復のために休まなくてはならなくなったりもする。  ずっと、少なくとも10年以上はこういった環境で時間も体力も精神力も削られてしまっているために、私の生産性は低くくなっている。  これは私の父、そしても実は母もそういったタイプなのだけれど、世代的なものだろうか。それとも年齢的なものなのだろうか。はたまた、個人的な特性であってたまたま似た者同士が結婚して私が生まれたということなのだろうか。背景ははっきりとわからないのだけれども、いずれにしても彼らは利己的だ。長年いっしょに生活してきた人がこんなに利己的だったと気づけなかったのは、うまく誤魔化されてきたせいもあるだろう。でも、生まれ育ってきた場所、つまり生きるために初歩的なところから学んでいく場所がそうだったのだから、私が気づきにくい人間として早い段階からすでにできあがってしまっていた可能性も高いのではないかと思う。  気づけないのは、なかなかメタ認知能力が発揮できない領域にいるからかもしれない、という気がしている。

育ち。

  うちの両親だけなのか、世代的なものなのかはわからない。彼らには自らが人としてよくなろう、向上しようという気がない。自分の基盤の部分はなにがどうしたって変わらないし、変わらせはしない、という気でいるのが見て取れるようになってきた。これはやっぱり、「不安」が強いからじゃないかなあ。  母親は専門的に不安神経症と診断されたのがはじまりだし、父親は総合内科で不安神経症と診断されている。それで僕はひとりっ子で、数的に分が悪い。こうしろああしろと不安神経症的な考え方や感じ方を押し付けられてきた。自分では知らずにいびつな世界観をもってしまうものなのです。  音楽、インターネット、というものがそのいびつな世界観に「それはどうかな?」と働きかけるものだったしハッと小さく気づけたことでいびつな世界観に小さな亀裂を生じさせもした。これは学生の時分。その後、悩まされていた頭痛が緩和して読書量が増えるとそれまでの世界観をいつしか客観的に見られるように。  だから、本って好いな、助かったな、すばらしいところがあるな、と思えたりもする。それでもって、僕自身もそういった言語的表現の発信をしたくなる。さらに、それで収入を得られたらなおいい、と思うようになった。とはいえ年齢的にも能力的にも、もうそれしかないじゃん、とも感じていた。  勤めながらでも本を読んだり、ものを書いたりするのは、流されて生きるのができないからだ。自分の手綱を自分で握っていないと著しく心身の調子が悪くなるタイプ。これは育ちのせいだろう。わけのわからないものを押しつけられてきた苦しみの根深さだ。  なんてことを書いていると、私小説的エンタメの一部みたいなものになっていたり。まあ、小説作品にとりかかっているときでも、自分ってものを5%くらい書き込んでも問題ないだろう、みたいには思っています。音楽の分野では、坂本龍一さんが作品のなかの5%の自分、と言っていたことがある。……と話がちょっぴり逸れていったところで今日はおしまい。

時代と共に精神構造は変わる。

  人間の精神構造は時代によって変わってくる。だから、100年前に効果のあった精神分析の方法論が現代では古いため使えなくて、現代で用いられているものはバージョンアップされたものだったりする(ようです)。  これは、精神分析が開発された西洋での話。だとすると、自我の在り方が西洋人とまったく違う(といわれる)日本人には、西洋で受け継がれている精神分析はそのまま当てはまらないんじゃないか、と考えられる。精神構造が違うから。  欧米ほどメンタル面での医療がポピュラーにならないのには、こういった、西洋人の精神構造に適した医療行為だからイマイチしっくりこないがためなのかなあと思った。薬物治療はまた違うかもしれないですが。精神分析や心理療法の分野についての話です。  精神分析をそのまま日本語に翻訳するっていうやり方よりも、日本人用に開発するような「創造」がほんとうは必要なのかもしれなくないですか。たとえば河合隼雄さんはユング派だったけれど、昔話を分析したりなど日本人の心理を西洋人とは違うものとして考えた人でもあったんじゃないかなあ。  などと、ぐるぐる考えながら書いていますが、現実にはずっと昔からそういった方向で動いてきているものだったりしそうですよね。  ・・・以下からは翌日に書いた追記になります。   ということは、しつけや教育の仕方にも「時代によって人間の精神構造は変わる」というとらえ方(あるいは事実)を反映するべきなのかもしれない。わかりやすい例だと根性論・精神論によるスパルタ教育。100年前の人たちにはそれが当たり前で、耐えられた人が多かったのだろうけれど、それは時代環境によって作られた個々の精神構造がそういった根性論と親和性があったからなのかもしれない。現代人にこの100年前の教育方法を施したところで成果はあまり上がらないだろうし、不満が出るだろうし、メンタル不調になる人もそれなりの数がいそうだ。  昔の考えを現代にも押し通す、というのは年配の人に多い。「昔はこうやってたんだ」と彼らは言う。これが時代錯誤となるのは、時代と共にそこに生きる人たちの精神構造が変わって、昔のやり方がそぐわなくなるからだ。開発された当初の精神分析が時代の進み具合とともに効果が得られなくなっていくように。だから、他者に意見したい人ほど、時代と共に自分自身も変化していかなくては...

一緒にいてはいけないタイプである私の父親

  スマートニュースに流れてきたプレジデント・オンラインの記事、「こんな人と一緒にいてはいけない…心療内科医が「警戒せよ」という幸福度を低下させる"危険人物"の見抜き方」( https://president.jp/articles/-/110730 )を読んで、あらためて私が生まれ育ちそして今もなお影響を受け続ける家庭環境の特異さを認識した。ありがたいほどに言語化されている記事だった。引用しながら書いていく。 「精神的に健康な人と結ぶ人間関係の割合を増やすことは、精神的によい。幸福には伝染性があるといわれており、ヘルシーで幸福な人の周囲には幸福な人がいる確率が高い」と記事の序盤にあるのだが、ぐっと踏み込んで考えてみると、「信頼できる人」を見抜けるかどうかがOWN LIFEの質、生きやすさ、幸福感に大きくかかわってくるということになる。「相手が信頼できる人かどうかを見極める」ことはひとつのスキルであり、そのスキルをうまく育めないと信頼できない人とのかかわりを持ち続けるようにもなってしまう。それによって自分を否定したり、責めたりするようになりやすい。なぜなら、信頼できない人とは、責任転嫁をして他者を責めるなど、他者を追いつめる人と見ることもできるからだ。たとえば、「反対に、信用できない人との関係はストレスやトラブルの原因になり、自己不信を強めることにもつながります。」という本記事の見方もそう。興味を持たれた方は、先ほど記したURLをあたってほしい。  さて。世の中には、信頼してはいけない人がいる。それが自らの親だったなら? 実は私の父親はこのタイプ。それならば早いうちに離れてしまえばいい、とお思いになるでしょう。しかしながら、要介護の母親を放っておけず、かといって父親から離れてしまっては経済的になりたたないほど初期の頃に人生を賭けてしまったため、信頼してはいけないタイプの父親とずっと暮らしていくはめになっている。  記事には【信頼できる人を見極めるチェックリスト】が載っている。 【言行一致しているか】 その人の発言と行動が一致しているかどうか。 → 父親はいわゆる「ジキルとハイド」の性質がある。外と内で使い分けるのもあるが、内にいるときでも気分でころころ変わり、矛盾だらけになる。町内会を脱会するときにもめて、「町の人権委員に話をしてくる」とでかけて...

奇跡に呼ばれる、あるいは呼び込む。

  今の職場で働きはじめてから5カ月が過ぎた。その間、これまで見たことなんて一度もなかった野生の白うさぎをいろいろなところで合計4回も目撃することに。自宅のある住宅地で跳ねまわっているのを見たのが始まりで、コンビニへ向かう途中の道路や隣町に買い物に行ったときの空き地などでも目撃しました。僕の持つうさぎのイメージは、「もふもふして丸っこくて柔らかそう」というものでしたが、これまでに見た4羽のうさぎはどの子も筋肉隆々でした。野生で生き延びる子たちですから当然といえば当然。  それで、急にこれほどの頻度で白うさぎを目撃することになったことを反芻するように立ち止まって思い返していたのが一昨日の夜のこと。ふと思い立って、「白うさぎってなにを象徴する存在なんだろう……」とグーグルで検索した。すると、「発展」や「飛躍」などとてもよい兆しであるとでてきた。でも、ちょっとばかりひっかかることが……。  僕の勤務先はカトリック系の社会福祉団体だ(カトリックに属するように強いられるどころか誘われたりもしない、ホワイトな団体)。ならばひょっとして、と恐るおそる「カトリック 白うさぎ 象徴」と検索窓にワードを入力した。すると、「白うさぎは聖母マリアの象徴」と出た。職場の玄関には大きなマリア像が置いてある。  これを宗教的な奇跡ととらえるかどうかはその人次第なんだろう。僕は、神様(あるいは神様と人が思い込んでいる事象を起こすモノ)は人間一人ひとりがそれぞれ心の奥に宿していると考えているから、自分が起こした(引き寄せた)事象だろうと考えることにした。C・G・ユングや河合隼雄さん(ユング派)の本に大きく頷いてきた人だからね、僕は。  ……まあでも、不思議といえば不思議ですよ、とっても。

大雪の札幌へと強行軍。

  札幌は先週末あたりに大雪! 1月は観測史上最大の降雪になっているだとかとニュースで報じられていました。札幌駅で一夜を明かした人たち、JRが止まったので新千歳空港で一夜を明かしたひとたちの姿がテレビ画面などに流れてきてもいました。大変だったと思う。  そんななか母親が入院するため、札幌市中央区の病院まで運転することに。30日(金)のことです。朝は4:15起床。家を出る時刻は20分押して6:50分に。道の駅でトイレによりながら、それでも使った12号線は思いのほか空いていて、2時間50分ほどで到着しました(普段は2時間ほどで着く)。手続きや説明会を経て、病院を出たのが16:15分くらい。そこからすすきのを超えるあたりまでひどい渋滞でした。帰宅ラッシュでもあったでしょう。すすきのは4車線のうち、雪で2車線つぶれ、残りの1車線は駐車している車が多いため実質1車線になっていました。進まないわけです。乱暴な割り込みをされたり、危なくもあって、けっこう神経を使います。で、すき家で夕食をとり、コンビニにも寄って、帰宅は19:50分くらいだったでしょうか。往復で6時間以上運転したことになり、目がしょぼしょぼだし、前日までの二日間は職場で引っ越しの助っ人をやってましたし、昨日は疲れが抜けずだらだら過ごしてしまった。母の介護から離れられているのにもったいないと思いながら。それでも、夜には乃木坂46のCDについている映像特典を楽しむことはできたのですが。  で。  予定では3日にまたその中央区の病院へ行かねばならないんです。昨日、今日とまた札幌は大雪です。やれやれ、思いやられます。  36号線を運転していると、横断歩道の入り口もふさがっていて、2m以上の雪壁になっている。なんだこれ、と。まあ、雪の多さでいえば僕の町のほうが多いのですが、昨年もそうですがどうして札幌が、とは思いますよねえ。ちょうど雪まつりの時期ですけど、加減ってものがあるでしょう。反対に、僕の町は例年よりも雪がだいぶ少ない。昨年11月にドカ雪が降って観測以上最大なんて言われたのに。気候変動ですねえ。

原稿の進み具合。

  第6章の書き出しまで書いたエンタメ長編小説の原稿。先週末までに第5章の直しを終えた(とはいえ、最終的な直しはあとでちゃんとやる)。現在108枚だとカウントしていたのだけど、Wordに移すと105枚に減った。400字原稿用紙換算ではなく400字換算で、である。  週三日のパート事務職に就いてから3か月半が経つ。まず仕事になれるまで時間がかかったことがあり、なかなか原稿に取りかかれなかった。ましてや、在宅介護と家事、そして親父からの精神的な攻撃を受けながらだ。  それゆえ、第6章以降、なにをどう書くつもりだったのか、忘れてしまった。まあ、設定メモのなかに粗目のあらすじはあるし、たくさんのアイデアをメモしたものもある。26000字以上書きつけた設定メモだ。それでも、頭の中に入っているとの入っていないのとでは違う。どうしてこの人物はこういう行動を取ったのだろう、というその裏付けがわからなくなる。表面的な流れは書いていけるけれど、そこにある各人物の行動原理や行動理由が宿っていかない。  これまで書いた分を印刷した。今のプリンタではじめての紙詰まりトラブルに苦しみながらも、47ページの原稿は刷り上がった。これに、蛍光ペンや赤ペンで構成要素をくくるなどしながら、複数のテーマや伏線になるところを押さえていこうと思う。この工程によって、「あの話はどうなった?」という瑕疵ができあがるのを防げそうだ。  「でも」、なのだ。そこまでコントロール仕切ったものは、まとまりが好過ぎて、何かが足りない、と思われる作品になってしまわないだろうか。作者が、いや、登場人物が、論理によらず放埓に思考したり行動したりするところが少なからず存在しないと、作品に血は通わないような気がする。  生きいきとした作品を書き上げたい。読んでわくわくして、ページをどんどん繰りたくなりながら、目を横滑りさせるのではなくときに立ち止まり深く考えもしていただける。今回の目標はそこだ。そして、最後には……。  まだどういった結末になるかは決まっていない。はじめは、きっちり問題が解決して終わりにしようという気持ちのほうが強かった。でも、おそらく、割り切れないなかで、小さな決着を見て終わるのではないかと考えている。  あと200枚くらい書くだろうけど、いつ書き上げられるのか。焦らずに進めたい。

年をとってキレやすくなるのは、どうして?

 年をとって「あの人、まるくなったね」と言われる人もいれば、キレやすくなってしまい、いわゆる「暴走老人」と化す人もいる。 丸くなったならば周りの人はほっとするのだけれど、どんどんキレやすくなっていく人の周りにいる人は心理的な負担がかさんでいくようになる。どうしてキレやすくなるのか。 人間、歳をとると、老化で脳が委縮していく。もちろん、それほど委縮しない人もたくさんいらっしゃるだろう。でも、老化による影響として、そうなりやすくなる。また、日常的な飲酒習慣によって脳が委縮するという論文を扱ったニュース記事を読んだこともあるのだけど、それが前頭葉前部で顕著だったならば、自制心が効きにくくなっていくことは想像に難くない。まずこれが、キレやすくなる理由のひとつとして考えられる。前頭葉前部の萎縮だ。 もうひとつ、キレるときに「頭に血が上る」と表現される。実際、かっかかっかとして血圧が高くなり血流が増すだろう。血流が増すと、脳に送られる酸素やエネルギー量が増える。そうすると、脳の働きがふだんよりも活性化する。キレやすくなる人はこの効果を無意識的に感じ取り、すぐに頭に血をのぼらせることをためらわなくなるのではないだろうか。年をとって、若い頃よりもあたまが働かなくなる。それが、血流の増加により全盛時に近づくことができる、つまり老いを少し緩和できる。いつまでも若くいたいのだ。キレて嫌な気持ちになりながら、同時にどこか快感を覚えているなんてことはないだろうか? だとすると、「いつまでも頭は若いままでいたい」ととくにいつも脳トレになるようなことなどをしていない人が望むと、キレやすくなるのかもしれない。 年をとってキレやすくなることは、ネバーギブアップが生む悪循環なのではないか、という主張なのです(肉体面に注意すると、血管が硬化するため、その影響だということもあげられるでしょうけれども)。 たぶん、ネバーギブアップの姿勢でいて差し支えのない状態の人もいるでしょう。どんな状態かというと、いつも頭をよく使うだとか、睡眠不足ではないだとか、飲酒や喫煙習慣がないだとか、食生活で超加工品をあまり摂らないだとかの状態ではないでしょうか。また、考え方や性格も影響すると思うのですよ。とすると、考え方や性格の基盤となる、その人の「世界観」や「人間観」が大切だということになる。 いつまでもあたまのなかは...

鬼滅の刃を観てきた。

  世界中で大ヒットしているという『鬼滅の刃 無限城編第一章』を昨日観てきた。11時10分開始の回である。公開されてから半年くらい経つのだから、上映回数が一日一回なのもしかたなし。  映画館までは車で片道1時間15分の道のり。比較的暖かな日だったので、道中は凍結した路面でもなく運転しやすくて助かる。着いたその地は江別市のイオンシネマだ。  『ズートピア2』が公開したばかりの土曜日だからだろう、フロアは子ども連れの家族で賑わっていた。早目に到着した僕は、壁面に並ぶ合成皮革の椅子の、端っこの席に目立たないよう行儀よく座ってスマホをいじっていた。すぐさま隣に小学校中学年くらいのふたりの子どもたちが座った。彼女らは目の前のガラステーブルに上映中のときのために買ったに違いないポップコーンの大きな箱を置き、白くおいしそうな粒をひとつふたつと口に運びつまみ食いをし始めている。僕のほうは中央競馬のレース情報を漁り続けていた。指でスマホ画面を叩いたり撫でたりしながら文字を追っているのだが、視界の端ではポップコーンに伸びる子どもの腕をぼんやり眺めてもいた。こういう待ち時間のつぶし方にはいまだに慣れない。  そうやって端っこの席になるべく気配を放たないように座り続けていた。夢中になっている振りをしているスマホの操作は、意思を持って選んでやっている行為のように見える工夫をしていてその実、困り果ててて四方八方ぐるりと見回したのち探し当てた逃げ道に転がり込んだにすぎない行為だ。やり過ごすにしても、はやる気持ちや待ちくたびれた気持ちを筒抜けにしてはいけない。社会というその水面に、たとえごく小さくても波紋を作らないようにするのがマナーであるのだと、いつしか周りから仕込まれていた。知らないうちに仕込まれていたんだろうという気がする。  入場開始のアナウンスの声が響く。余裕を見せるように立ちあがって入口へ向かうと、すでに長い列ができあがっていた。驚いたのが、列をなす人たちのポップコーンやチュロスを手に持っているその率。全体の9割以上は抱えていたり握っていたりしている。僕の知らない決まりがあったのではないか、と胸騒ぎがしたくらいだ。いやいやそんなバカな決まりなんてないだろう、と驚きを振り払い、4番スクリーンへと歩いた。  隣にはおよそ20代の女子二人組が座った。チケット購入時に、ここなら両隣りに...

ありふれた物語に回収される個別性。

胸が苦しいものだから休もうと思って、やることはあるのだけど一時自室で音楽を聴きはじめる。すると親父から、「おまえは気楽に過ごしてばかりだ」などと文句を言われて、ストレス解消どころかストレスを溜めることになる。 こういうケースは親父からに限りません。ありふれた物語に回収して決めつける行為はそこら中にあるものです。 ストレス源の人から、さらにこうしてストレスをかけられて、レッテルを貼られることは珍しいことではない。さらにいえば、たとえば家庭の問題を行政に相談しても、こちらがうまくいっていない様子をこちらが怠惰だからなどと「ありふれた物語」に回収して片付けられる場面だってある(というか、そのほうが多いかもしれない)。 100年前にアメリカでリップマンが『世論』にて主張したように、人は「思うように思う」し、それを「決めつける」。100年後の今も、そういった人間性の傾向は変わらずにある。 僕はそういうことを、ここ5,6年、さらにつよく感じさせられている日々を送っている。僕個人はやっぱり自分自身の個別性の物語のなかに住んでいるのだけれど、本来ならばマイノリティとして他者に判断されるに違いないそういった個別性の生き方を、そうとは判断されずにマジョリティの物語に回収されてしまいながら生きているから、そういった誤解や決めつけにさらされる苦しみを受け続けるハメになっているのかもしれない。 また、自身がマイノリティであることを認める強い意志というか覚悟というか、そういったものをしっかり持っていないと、マイノリティである自分自身ですらマジョリティであるのだという演技を、他者に合わせるため無自覚にしてしまったり、そうじゃなかったとしてもマジョリティの引力にひっぱられて自分でもどうだったかがわからなくなってしまったりしてその場を取り繕ってしまうものだと思う。 大変な目に遭っている人が状況をひっくり返して挽回するには、それまでの頑張り以上に、さらにさらに頑張って覆さないといけないという不条理な仕組みが厳然と存在するのがこの世界。マイノリティなところをそのままのものとして他者に認識してもらうには、多大な労力と多くの時間が必要になります。

日々。そして秋華賞。

  在宅介護をしながらでも少日勤務が可能な会社があり、そこで働きながら原稿も少しずつ書きつつ(直しばかりで進んでいきませんが)の毎日です。介護、家事、勤務、原稿、そして土日は競馬をみて、たまにパチンコに行ったり、SNSを楽しみ、読書をして内容をまとめ、疲労がどっしりと溜まって早寝遅起きしたり。 そんな本日は、競馬のG1レースがあります。若駒の牝馬たちが駆ける三歳限定G1レースの三冠最終戦、秋華賞。 ◎カムニャック ○ケリフレッドアスク ▲テレサ △ヴーレヴー 予想は上のようになりました。秋華賞って上位人気の馬で決まる傾向の強いレースなんですが、本命のカムニャック以外は人気薄です。ヴーレヴーにいたっては18頭中16番人気(当日12:00現在)。それでも少額で馬券を購入しまして、どきどきわくわくを楽しもうと思います。

続・慢性期にある精神疾患の人たちを地域で看るようにする、というニュースから。

  前に書いたが、慢性期にある精神疾患の人たちを地域で看るようにする、というニュース。このあたり、「社会福祉」へと範囲を広げて職場で先輩とちょっと話をした。  僕としては「人件費のコストカット」という観点だったのだけれど、そもそも社会福祉の業界でかなり人不足になっていることを先輩から教えられた。まあ、どこの業界でも人不足は今、よく言われている。けれど、社会福祉の分野も相当だ、と。  まず若者が定着しない。それ以前に、社会福祉の業界へ応募する若者が少なくなった。とりわけ地方の社会福祉においては、若者が経験を積んだのち、より都会の方へと出て行ってしまう傾向が強いのだ、と。これはアジアから働きに来ている人たちもそうで、はじめは地方の社会福祉施設で働いてくれる。それも勤勉で優秀だったりするのだけれど、やっぱり日本人の若者のように、より都会化した街へと移っていくそう。  実は、僕の働きだした場所が社会福祉施設なのだ。事務職の先輩は、事務職であるにも関わらず現場へと一日中出向いていることが多い。これも、人不足のためだ。  こういった状況を鑑みて、慢性期の精神疾患の人たちを含む、看護や介護が必要な人たちを地域で看るという方針に決まったのかもしれない。現代思想の分野で、精神疾患を生むのは社会のありかたからの影響なのだから、みんなで精神を病んだ人たちを看ていくべきだ、という考え方があるけれど、このニュースになっている件に関しては、残念ながらそうではなさそうだ。  今読んでいる『近江商人の哲学』にちらっと書かれていた文言に、イタリア人は英米人のような効率主義ではない、という主旨のものがあった。イタリアでは精神病棟が撤廃されているはず。地域で看るようにシフトチェンジがはかられていて、それは効率主義ではないから移行できたのかもしれない。日本も英米のような効率主義的傾向が強いところがある。  そんな効率を重視する国で、地域が一体となって社会福祉をしていく。人権尊重の意識からきたものではないのだから、はたして根づくだろうか? と懐疑的な目で見てしまう。どこまで折衷できるか。  「英米の効率主義」⇔「イタリア的な人情のある主義」という構図にしてみる。二分法思考のように、100:0と極端な選択をするのではなく、75:25でも、55:45でも、まあどんな割合がよいのかはわからないけれど、それでも少し...

勤務のはじまり。

  10月1日より、少日勤務が始まりました。9月中旬に面接を受けた社会福祉関係の会社から採用通知を頂いたのです。週三日(基本、火水木)で、一日7時間+休憩1時間で8時間は会社にいます。  面接では、面接官が3名もいらっしゃいましたし(あとで聴いたところだと、通常は面接官1名で行われているそう)、こちらの職歴の貧しさをまず指摘されてその説明にしどろもどろにもなりました。(なかなか一口には説明できない複雑さがあります)。これまでの自分の半生を知っていただくような話をしたうえで、少日短時間勤務で働きたい、と希望したのですが、おおむね叶ったかたちです。  職種は事務です。15年ぶりくらいになります。いちおう、基本的なパソコン操作はできますし、先週出勤したなかでは、とくに困ったこともありませんでした。あとは、慣れて、覚えて、コミュニケーションをとって、でしょうか。  できるだけ長く続けていけるように、無理をせず、かといって手を抜かず、仕事がうまくいくことでの周囲への感謝を忘れずにやっていきたい。  働き始めて、人手不足なんだなあ、というのがうっすらわかったところです。今って、たいていの会社がそうなのかもしれないですね。  さて。家庭では、要介護の母の面倒見を、不安障害(未治療)の父が大声を張り上げたり叫ぶように怒鳴ったりしながらするのを僕がサポートしています。紛糾の毎日なので、こちらの精神面の負担がかなりのものです。なので、言葉通りの意味で胸が痛んだりもします。役所などの外部の人たちからは、両親に子(僕)が巻き込まれている、と言われもしますし、僕もほぼそうだと思っています。そんななか、日中に家を留守にして外で働くことは親の負担が増えますが、僕としては家から離れる時間をもてることがどれほど大きいか。もちろん、会社では仕事にあくせくするわけですけれども、昼休憩の1時間がとても有益で貴重です。そこでどれだけリフレッシュするか、です。  原稿仕事は止まっていますけれども、まとまった休み期間が毎週あることで、やろうとすれば取りかかれると思うんです。今日でいうとちょっと整える程度だけやりましたが、たぶん書いていけます。今回、蛇にまつわる話を書いているせいなのか、今朝は夢の中で毒蛇に噛まれました。早く続きを書け、という催促なのかもしれません。

素っ裸を社会は禁じる。

  素っ裸で歩いていたら捕まる。自然な姿なのに、自然な姿を社会は禁じる。「自然でいてはいけません、それが社会です」。ここから考えていくと、人間の本来性からくる自然な言葉も社会は禁じるのだろう。  ということはつまり、禁じられた言葉こそ、人間本来の言葉だったりするのかもしれない。単純なところだと「さぼりたいわー!」「ごろごろしよう!」などの人間のネイキッドな言葉を、社会は嫌いがちかもしれない。こういった言葉を許す心性は、社会性ではなくて人間性から来るものだったりしないか。  社会性とはなにか、人間性とはなにか。そういったことを少しずつでも掴んでいくためのヒントに、こういった視点はなると思う。

Cook do 四川風麻婆豆腐が教えてくれる、消費社会のマキシミン原則。

  「Cook do 四川風麻婆豆腐」を使って作っていると、裏書きに、「たれを入れるときには火を止めてください」とあるのですよ。これはまごまごしてしまったら焦げるからですか? 僕は弱火にして投入できるし大抵の人は焦げ付かすことはないように思う。で、ここで学べることは、つまり、消費社会は功利主義(最大多数の最大幸福を優先する主義)ではないということ。  まあ、火を止める理由は僕の推測によるところだから「(仮)」としての考察ではあります。功利主義だったら、「そのままたれを投入してください、それで失敗するごく少数の人たちのことは想定していません」となるでしょう。その少数である焦げ付かせてしまうかもしれない人々想定して現実にはカバーしているのだから、消費社会にはマキシミン原則(最不遇の立場を最大に改善すること)が適用されているのではないですか。  これは日本だからこそなのか。そのあたりはまったくわかりませんが、「こういうの、好いところじゃないか」とちょっとうれしくなりました。こうやって考えてみるまでは、なんでもなかったことだったんですけどね。