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続・悪者にされる不条理。

   どうして僕が実家にいて、親たちをつなぎとめているのか。それはひとつに、僕自身が再生・回復するために家族の発展的修復を試みることが必要だからかもしれない。発展的修復だから、元に戻るのではなくてみんなが成長しながら家族関係を調整していくことになる。そうすることで僕自身救われるところがあるとわかっているからそうするのかもしれない。僕が実家暮らしをして家庭を繋ぎとめているのが悪い、と地域包括支援に言われたが、僕もまた家族のひとりであることを忘れてもらっては困る。また僕には、人を助けたい、という気持ちがあり、小説を書いてそれを為したい、というのもある。それなのに、現実世界でそういった問題に直面しているというのにうっちゃってしまい、自分が書く小説だけでメッセージを放っても空っぽなものになる。上っ面の嘘になる。だから、家庭の発展的修復を考えるというのもある。  父には父の問題があり、母には母の問題があり、そういった親たちの元に生まれ育った僕にも僕の問題がある、それはまだ意識されていないものだとしても。それらと各々が向き合い、引き受けることで考え方や感じ方が変わっていくはずで、その少し変われた各人でまた家族関係を見直す、といった有り方を望んでいる。  このあたり、僕がどうして家にいるのかを行動分析学的に考えるとわかるのだけど、役所は表面的に、思いたいように思って決めつける。 たぶん、前例とかマニュアルとか、そういったシステマティックなやり方に則るから、ケースごとの個別性が目に入らないのかもしれない。逆に、個別性が目に入ると物事が進んでいかないから、あえて無視するという雑な手段を選んでいるのかもしれない。  あと、ひとつの行動には多面的な意味がある場合は珍しくない。僕が夜に外出しがちなことも、それは父親と距離を取ることでもあるし、それこそ僕が不在になることで本来子どもを巻き込むことで成り立たせてはいけない介護状況に直面してもらう意味もあるし、僕自身が家庭から避難し回復するためという意味もあり、もちろん外出して楽しみたいという意図のあることもある。 このあたりはショートメッセージでもいいから反論しないとなあと思うところなのでした。

悪者にされる不条理。

  地域包括支援センターの人たちが来ていろいろ話をした。親父は限界だから、とか、暴力は警察に、とか。家の状況が紙一重で保たれているのは僕の存在のためだから、とそれを悪いこととされてしまい、家を出ないか、などと言われる。こんなに頑張ったり苦しんだりしてきたのに悪者にされてしまうんだねえ。  このぶんだと、母親を病院なり施設なりに預けるとなると僕もお金をとられることになるな。というか、こちらがいくらか負担すると言わないと収まらなくなりそう。やれやれ。  時間が経つにつれてだんだん腹が立ってくるわけだ苦笑 僕に対して「おまえが実家住まいだから親たち夫婦の問題(暴力)がこれだけ重くなったんだ。だから悪いのおまえだ。そしてこの状況を改善するにはおまえが家を出るか警察に通報するかの二択しかない」(要約)だからね。  親父の暴力については、よくはならない患者である母を一生懸命介護をし続けたため介護疲れが酷くなって暴力に及んでしまった可哀そうな夫、という美談にまとめられてしまったので、「外からはそう見えるかもしれませんが、家の中から見ていると父はもっとずっと利己的なもんですよ」と返した。  献身的であるならば、母の調子が悪くなればもっと手厚く頑張るはず。現実には母の調子が悪くなればなるほど父の態度はひどくなっている。一番母の調子が悪くなったときは父はギブアップして僕が母の介抱役をしていることが多い。そんなとき親父はぷりぷりしてテレビを見てたりするし。  要するに役所は責任逃れとして僕を悪者にしているふしがある。僕が2019年に相談してから、うちの問題に対して役所はなんら成果をあげていない。そこにたとえば親父が母親にけがをさせたりすると、役所の不祥事的なものになるかもしれなくて、そうならないために僕を悪者に仕立て上げているような。  やっぱずるいのよ、役所って。それにこっちの言葉が通じないし。  それはそれとして。ジキルとハイドである父親がジキルとして母親の転院先の病院の下見に行き、好感触を得てきた。最近は病院都合で大部屋から個室へ移されても差額ベッド費用が一日3000円だとかかかるのだけど、今回の病院はそれより安かったし、  こちらがもうどうしても面倒を看きれないというときにも入院させてもらえるという話を聞けたようだし、看取りまで面倒を見てもらえるとも言われたそう。やっとそ...

限られた内的エネルギーを奪う、ということ。

  一日のうちに使えるエネルギーや意思決定量は決まっている、という説を解説するWEB記事を読み、そこに書かれてあった「決断疲れ」という言葉をヒントにして、自分がなにに捕われており、なにによってしがらんでいるかを考えた。シンプルに、家庭環境が要因としてそこにある。  父は、「これはどういう意味なんだ」「これはどう使うんだ」などとすぐに他人(たいてい僕)を巻き込んだり、使ったりする。独り言の多いタチなのだが、水中に釣り糸を垂らすかの如く、「これで誰かが釣れたらラッキーだ」くらいの軽い感覚でそうしているようにも見える。独り言は釣り糸を垂らす行為なのだ。そして、私は何度も何度もかんたんに釣られてきた。つまり「釣る」とは、自分のために他者のエネルギーや時間を使うということ。  さらにえいば父は、家族の文句や家族の愚痴をはばかることなく家庭内でたれたり、重箱の隅をつついて家族を攻撃してばかりいる。そのせいで、私はストレスや小さなトラウマを日ごろから抱えがちになっている。このため、もともと一日で使える量が限られていると言われる一日のエネルギーや意思決定の力がどんどん削がれてしまい、一日の内にできることが少なくなってしまう。少なくなるどころか、回復のために休まなくてはならなくなったりもする。  ずっと、少なくとも10年以上はこういった環境で時間も体力も精神力も削られてしまっているために、私の生産性は低くくなっている。  これは私の父、そしても実は母もそういったタイプなのだけれど、世代的なものだろうか。それとも年齢的なものなのだろうか。はたまた、個人的な特性であってたまたま似た者同士が結婚して私が生まれたということなのだろうか。背景ははっきりとわからないのだけれども、いずれにしても彼らは利己的だ。長年いっしょに生活してきた人がこんなに利己的だったと気づけなかったのは、うまく誤魔化されてきたせいもあるだろう。でも、生まれ育ってきた場所、つまり生きるために初歩的なところから学んでいく場所がそうだったのだから、私が気づきにくい人間として早い段階からすでにできあがってしまっていた可能性も高いのではないかと思う。  気づけないのは、なかなかメタ認知能力が発揮できない領域にいるからかもしれない、という気がしている。

育ち。

  うちの両親だけなのか、世代的なものなのかはわからない。彼らには自らが人としてよくなろう、向上しようという気がない。自分の基盤の部分はなにがどうしたって変わらないし、変わらせはしない、という気でいるのが見て取れるようになってきた。これはやっぱり、「不安」が強いからじゃないかなあ。  母親は専門的に不安神経症と診断されたのがはじまりだし、父親は総合内科で不安神経症と診断されている。それで僕はひとりっ子で、数的に分が悪い。こうしろああしろと不安神経症的な考え方や感じ方を押し付けられてきた。自分では知らずにいびつな世界観をもってしまうものなのです。  音楽、インターネット、というものがそのいびつな世界観に「それはどうかな?」と働きかけるものだったしハッと小さく気づけたことでいびつな世界観に小さな亀裂を生じさせもした。これは学生の時分。その後、悩まされていた頭痛が緩和して読書量が増えるとそれまでの世界観をいつしか客観的に見られるように。  だから、本って好いな、助かったな、すばらしいところがあるな、と思えたりもする。それでもって、僕自身もそういった言語的表現の発信をしたくなる。さらに、それで収入を得られたらなおいい、と思うようになった。とはいえ年齢的にも能力的にも、もうそれしかないじゃん、とも感じていた。  勤めながらでも本を読んだり、ものを書いたりするのは、流されて生きるのができないからだ。自分の手綱を自分で握っていないと著しく心身の調子が悪くなるタイプ。これは育ちのせいだろう。わけのわからないものを押しつけられてきた苦しみの根深さだ。  なんてことを書いていると、私小説的エンタメの一部みたいなものになっていたり。まあ、小説作品にとりかかっているときでも、自分ってものを5%くらい書き込んでも問題ないだろう、みたいには思っています。音楽の分野では、坂本龍一さんが作品のなかの5%の自分、と言っていたことがある。……と話がちょっぴり逸れていったところで今日はおしまい。

時代と共に精神構造は変わる。

  人間の精神構造は時代によって変わってくる。だから、100年前に効果のあった精神分析の方法論が現代では古いため使えなくて、現代で用いられているものはバージョンアップされたものだったりする(ようです)。  これは、精神分析が開発された西洋での話。だとすると、自我の在り方が西洋人とまったく違う(といわれる)日本人には、西洋で受け継がれている精神分析はそのまま当てはまらないんじゃないか、と考えられる。精神構造が違うから。  欧米ほどメンタル面での医療がポピュラーにならないのには、こういった、西洋人の精神構造に適した医療行為だからイマイチしっくりこないがためなのかなあと思った。薬物治療はまた違うかもしれないですが。精神分析や心理療法の分野についての話です。  精神分析をそのまま日本語に翻訳するっていうやり方よりも、日本人用に開発するような「創造」がほんとうは必要なのかもしれなくないですか。たとえば河合隼雄さんはユング派だったけれど、昔話を分析したりなど日本人の心理を西洋人とは違うものとして考えた人でもあったんじゃないかなあ。  などと、ぐるぐる考えながら書いていますが、現実にはずっと昔からそういった方向で動いてきているものだったりしそうですよね。  ・・・以下からは翌日に書いた追記になります。   ということは、しつけや教育の仕方にも「時代によって人間の精神構造は変わる」というとらえ方(あるいは事実)を反映するべきなのかもしれない。わかりやすい例だと根性論・精神論によるスパルタ教育。100年前の人たちにはそれが当たり前で、耐えられた人が多かったのだろうけれど、それは時代環境によって作られた個々の精神構造がそういった根性論と親和性があったからなのかもしれない。現代人にこの100年前の教育方法を施したところで成果はあまり上がらないだろうし、不満が出るだろうし、メンタル不調になる人もそれなりの数がいそうだ。  昔の考えを現代にも押し通す、というのは年配の人に多い。「昔はこうやってたんだ」と彼らは言う。これが時代錯誤となるのは、時代と共にそこに生きる人たちの精神構造が変わって、昔のやり方がそぐわなくなるからだ。開発された当初の精神分析が時代の進み具合とともに効果が得られなくなっていくように。だから、他者に意見したい人ほど、時代と共に自分自身も変化していかなくては...