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ジェミニからの講評

  こないだtalesにて公開した短編『衛星は周り続ける、静かに穏やかに』をAI(ジェミニ)に講評してもらった。「極めて良質な純文学短編」と評された。エンタメを書いたつもりだったけど、…じゃなかった 笑  それはさておき、AIには、作品が4話と短いことがまず指摘されながらも新人賞だったら2次通過はあるかもしれず3次まではなさそうというレベルだと言われた(重ねて言うけれども、分量的には新人賞の要件を満たしていない)。まだまだ精進です。どこがよくない、みたいな指摘もあって、たとえば主人公の妹は女子高生なのに考えてることが大人過ぎる、など(学校で先生やクラスメートと似たようなことをテーマにして話し合ったことがある、だとか、くわえてAIと夜中までこのテーマについて話し合ったことがある、だとか、そういった背景を書き足すという解決策はある)。  また、独白的に主人公が思索を独白する最後の章は、解説的ともとられるので、描写を加えることが勧められたりした。あと、1,2か所、改善するとなおよくなるよ、というところを例文付きで説明してくれた。AI編集者にはたまにお付き合いいただくとなかなかおもしろい。  分量を多くするとそれだけ風呂敷をおおきく広げることになる。それをしっかり着地させる力量には100%の自信はない。だけれど、チャレンジしないとできるかどうかもわからないし経験も積めない。時間はどうしてもかかる。  AIは展開のおもしろさに☆5つ満点をつけた。テーマの価値(力)や読みやすさについては☆4つ。最終話まで読んでもらってからは「本作はすでに文学として非常に高い完成度を誇っています」と言ってくれてやっぱりあとは分量を多くしたときになにができるかと半歩ずつでもさらに精度をあげていくことだ。  主人公が思索に深く入り込むようなときでも、周囲で何が起きているかを描写してそれが思索とリンクするとなお、読み手はわかりやすく没入できる。そういったところの配慮を忘れずやっていこう。 「見事なグランドフィナーレ」「小説として完璧な美しさを持つ幕引きです」などと、AIってほんとうに誉めそやしてくれるものなのだけれど、まあでもAIには言ってないこととして、プロットを書かずに一筆書きで仕上げたのが今回の作品。こういった力がついてきたことは自認してよいかもしれない。  経験、経験。これからも経験を...

短編小説を書いていた。

  母が今の病院に転院し、薬を調整する関係で入院したのが7月21日だった。その日は有休を使って、車で一時間ちょっとのその病院へ母を送った。それからの日々は、いろいろと問題の多い父と二人暮らし。とはいえ、母がいないのでキレたり荒れたりすることはほとんどなくなった(不安症なので、母について、母の入院について、逐一なにか見落としはないかと考えている様子ではあるし、ちょっとプレッシャーがかかることがあるとすぐに混乱し、僕が当たられるという事態になることはある)。不安症で、自己愛性傾向があり(幼少時に両親からあまりかまってもらえなかったことが原因としてあるように見える)、眠れないだとか心が休まらないだとかという燃え尽き症候群でもあるようだ。 「ここには安心して任せられる」という病院や施設がまず見つけられない。金銭的な問題や、介護や看護が行き届くかどうかという問題が大きくある。母には負担の無い生活をいちばん過ごしやすいと本人も言っているこの家で過ごしてもらいたいのだけれど、そのために家で介護を抱えこんで、にっちもさっちもいかない状況になってしまった。域包括に頼ってもあまりに保守的でなにも助けになってもらえない、挙句、父親まで荒れる、僕の体調も悪くなる、打開策はない。ヤスパースが言った「限界状況」にあるようにも思える。  ただ、母が今回転院した病院のスタッフさんたちの雰囲気などはとても好感を持てるものだった。病院としても、先の話にはなるが看取りまでみます、という話にもなっている。これはとても大きい。今後レスパイト入院を頼むことも出てくるが、そのときにおそらくかかる個室料金については、前の病院よりも少し安く済みそうだ。ちなみに、現在の入院は薬の調整で病院側の都合ということなのか、個室料金は病院負担になっている。これが前の病院だったら、そういった場合でも個室料金は当人負担となっていた。  さて。つまりは、いわゆる標準的な一般生活に近づいた日々を僕がひと月ほど暮らせているという話にもつながる。肩の力が緩むのには2週間ほどかかった。今月7日から夏休みにはいり、11日間過ごした。その間、地方競馬で遊んだり録画番組を大量消化しながら、短編小説にもとりかかってみた。書きかけの長編小説があるのだが、これが2月以降ほぼ取りかかっていない。さすがに腕も鈍ってくる。それで、短編小説で腕慣らしを...

続・悪者にされる不条理。

   どうして僕が実家にいて、親たちをつなぎとめているのか。それはひとつに、僕自身が再生・回復するために家族の発展的修復を試みることが必要だからかもしれない。発展的修復だから、元に戻るのではなくてみんなが成長しながら家族関係を調整していくことになる。そうすることで僕自身救われるところがあるとわかっているからそうするのかもしれない。僕が実家暮らしをして家庭を繋ぎとめているのが悪い、と地域包括支援に言われたが、僕もまた家族のひとりであることを忘れてもらっては困る。また僕には、人を助けたい、という気持ちがあり、小説を書いてそれを為したい、というのもある。それなのに、現実世界でそういった問題に直面しているというのにうっちゃってしまい、自分が書く小説だけでメッセージを放っても空っぽなものになる。上っ面の嘘になる。だから、家庭の発展的修復を考えるというのもある。  父には父の問題があり、母には母の問題があり、そういった親たちの元に生まれ育った僕にも僕の問題がある、それはまだ意識されていないものだとしても。それらと各々が向き合い、引き受けることで考え方や感じ方が変わっていくはずで、その少し変われた各人でまた家族関係を見直す、といった有り方を望んでいる。  このあたり、僕がどうして家にいるのかを行動分析学的に考えるとわかるのだけど、役所は表面的に、思いたいように思って決めつける。 たぶん、前例とかマニュアルとか、そういったシステマティックなやり方に則るから、ケースごとの個別性が目に入らないのかもしれない。逆に、個別性が目に入ると物事が進んでいかないから、あえて無視するという雑な手段を選んでいるのかもしれない。  あと、ひとつの行動には多面的な意味がある場合は珍しくない。僕が夜に外出しがちなことも、それは父親と距離を取ることでもあるし、それこそ僕が不在になることで本来子どもを巻き込むことで成り立たせてはいけない介護状況に直面してもらう意味もあるし、僕自身が家庭から避難し回復するためという意味もあり、もちろん外出して楽しみたいという意図のあることもある。 このあたりはショートメッセージでもいいから反論しないとなあと思うところなのでした。

悪者にされる不条理。

  地域包括支援センターの人たちが来ていろいろ話をした。親父は限界だから、とか、暴力は警察に、とか。家の状況が紙一重で保たれているのは僕の存在のためだから、とそれを悪いこととされてしまい、家を出ないか、などと言われる。こんなに頑張ったり苦しんだりしてきたのに悪者にされてしまうんだねえ。  このぶんだと、母親を病院なり施設なりに預けるとなると僕もお金をとられることになるな。というか、こちらがいくらか負担すると言わないと収まらなくなりそう。やれやれ。  時間が経つにつれてだんだん腹が立ってくるわけだ苦笑 僕に対して「おまえが実家住まいだから親たち夫婦の問題(暴力)がこれだけ重くなったんだ。だから悪いのおまえだ。そしてこの状況を改善するにはおまえが家を出るか警察に通報するかの二択しかない」(要約)だからね。  親父の暴力については、よくはならない患者である母を一生懸命介護をし続けたため介護疲れが酷くなって暴力に及んでしまった可哀そうな夫、という美談にまとめられてしまったので、「外からはそう見えるかもしれませんが、家の中から見ていると父はもっとずっと利己的なもんですよ」と返した。  献身的であるならば、母の調子が悪くなればもっと手厚く頑張るはず。現実には母の調子が悪くなればなるほど父の態度はひどくなっている。一番母の調子が悪くなったときは父はギブアップして僕が母の介抱役をしていることが多い。そんなとき親父はぷりぷりしてテレビを見てたりするし。  要するに役所は責任逃れとして僕を悪者にしているふしがある。僕が2019年に相談してから、うちの問題に対して役所はなんら成果をあげていない。そこにたとえば親父が母親にけがをさせたりすると、役所の不祥事的なものになるかもしれなくて、そうならないために僕を悪者に仕立て上げているような。  やっぱずるいのよ、役所って。それにこっちの言葉が通じないし。  それはそれとして。ジキルとハイドである父親がジキルとして母親の転院先の病院の下見に行き、好感触を得てきた。最近は病院都合で大部屋から個室へ移されても差額ベッド費用が一日3000円だとかかかるのだけど、今回の病院はそれより安かったし、  こちらがもうどうしても面倒を看きれないというときにも入院させてもらえるという話を聞けたようだし、看取りまで面倒を見てもらえるとも言われたそう。やっとそ...

限られた内的エネルギーを奪う、ということ。

  一日のうちに使えるエネルギーや意思決定量は決まっている、という説を解説するWEB記事を読み、そこに書かれてあった「決断疲れ」という言葉をヒントにして、自分がなにに捕われており、なにによってしがらんでいるかを考えた。シンプルに、家庭環境が要因としてそこにある。  父は、「これはどういう意味なんだ」「これはどう使うんだ」などとすぐに他人(たいてい僕)を巻き込んだり、使ったりする。独り言の多いタチなのだが、水中に釣り糸を垂らすかの如く、「これで誰かが釣れたらラッキーだ」くらいの軽い感覚でそうしているようにも見える。独り言は釣り糸を垂らす行為なのだ。そして、私は何度も何度もかんたんに釣られてきた。つまり「釣る」とは、自分のために他者のエネルギーや時間を使うということ。  さらにえいば父は、家族の文句や家族の愚痴をはばかることなく家庭内でたれたり、重箱の隅をつついて家族を攻撃してばかりいる。そのせいで、私はストレスや小さなトラウマを日ごろから抱えがちになっている。このため、もともと一日で使える量が限られていると言われる一日のエネルギーや意思決定の力がどんどん削がれてしまい、一日の内にできることが少なくなってしまう。少なくなるどころか、回復のために休まなくてはならなくなったりもする。  ずっと、少なくとも10年以上はこういった環境で時間も体力も精神力も削られてしまっているために、私の生産性は低くくなっている。  これは私の父、そしても実は母もそういったタイプなのだけれど、世代的なものだろうか。それとも年齢的なものなのだろうか。はたまた、個人的な特性であってたまたま似た者同士が結婚して私が生まれたということなのだろうか。背景ははっきりとわからないのだけれども、いずれにしても彼らは利己的だ。長年いっしょに生活してきた人がこんなに利己的だったと気づけなかったのは、うまく誤魔化されてきたせいもあるだろう。でも、生まれ育ってきた場所、つまり生きるために初歩的なところから学んでいく場所がそうだったのだから、私が気づきにくい人間として早い段階からすでにできあがってしまっていた可能性も高いのではないかと思う。  気づけないのは、なかなかメタ認知能力が発揮できない領域にいるからかもしれない、という気がしている。