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大雪の札幌へと強行軍。

  札幌は先週末あたりに大雪! 1月は観測史上最大の降雪になっているだとかとニュースで報じられていました。札幌駅で一夜を明かした人たち、JRが止まったので新千歳空港で一夜を明かしたひとたちの姿がテレビ画面などに流れてきてもいました。大変だったと思う。  そんななか母親が入院するため、札幌市中央区の病院まで運転することに。30日(金)のことです。朝は4:15起床。家を出る時刻は20分押して6:50分に。道の駅でトイレによりながら、それでも使った12号線は思いのほか空いていて、2時間50分ほどで到着しました(普段は2時間ほどで着く)。手続きや説明会を経て、病院を出たのが16:15分くらい。そこからすすきのを超えるあたりまでひどい渋滞でした。帰宅ラッシュでもあったでしょう。すすきのは4車線のうち、雪で2車線つぶれ、残りの1車線は駐車している車が多いため実質1車線になっていました。進まないわけです。乱暴な割り込みをされたり、危なくもあって、けっこう神経を使います。で、すき家で夕食をとり、コンビニにも寄って、帰宅は19:50分くらいだったでしょうか。往復で6時間以上運転したことになり、目がしょぼしょぼだし、前日までの二日間は職場で引っ越しの助っ人をやってましたし、昨日は疲れが抜けずだらだら過ごしてしまった。母の介護から離れられているのにもったいないと思いながら。それでも、夜には乃木坂46のCDについている映像特典を楽しむことはできたのですが。  で。  予定では3日にまたその中央区の病院へ行かねばならないんです。昨日、今日とまた札幌は大雪です。やれやれ、思いやられます。  36号線を運転していると、横断歩道の入り口もふさがっていて、2m以上の雪壁になっている。なんだこれ、と。まあ、雪の多さでいえば僕の町のほうが多いのですが、昨年もそうですがどうして札幌が、とは思いますよねえ。ちょうど雪まつりの時期ですけど、加減ってものがあるでしょう。反対に、僕の町は例年よりも雪がだいぶ少ない。昨年11月にドカ雪が降って観測以上最大なんて言われたのに。気候変動ですねえ。

原稿の進み具合。

  第6章の書き出しまで書いたエンタメ長編小説の原稿。先週末までに第5章の直しを終えた(とはいえ、最終的な直しはあとでちゃんとやる)。現在108枚だとカウントしていたのだけど、Wordに移すと105枚に減った。400字原稿用紙換算ではなく400字換算で、である。  週三日のパート事務職に就いてから3か月半が経つ。まず仕事になれるまで時間がかかったことがあり、なかなか原稿に取りかかれなかった。ましてや、在宅介護と家事、そして親父からの精神的な攻撃を受けながらだ。  それゆえ、第6章以降、なにをどう書くつもりだったのか、忘れてしまった。まあ、設定メモのなかに粗目のあらすじはあるし、たくさんのアイデアをメモしたものもある。26000字以上書きつけた設定メモだ。それでも、頭の中に入っているとの入っていないのとでは違う。どうしてこの人物はこういう行動を取ったのだろう、というその裏付けがわからなくなる。表面的な流れは書いていけるけれど、そこにある各人物の行動原理や行動理由が宿っていかない。  これまで書いた分を印刷した。今のプリンタではじめての紙詰まりトラブルに苦しみながらも、47ページの原稿は刷り上がった。これに、蛍光ペンや赤ペンで構成要素をくくるなどしながら、複数のテーマや伏線になるところを押さえていこうと思う。この工程によって、「あの話はどうなった?」という瑕疵ができあがるのを防げそうだ。  「でも」、なのだ。そこまでコントロール仕切ったものは、まとまりが好過ぎて、何かが足りない、と思われる作品になってしまわないだろうか。作者が、いや、登場人物が、論理によらず放埓に思考したり行動したりするところが少なからず存在しないと、作品に血は通わないような気がする。  生きいきとした作品を書き上げたい。読んでわくわくして、ページをどんどん繰りたくなりながら、目を横滑りさせるのではなくときに立ち止まり深く考えもしていただける。今回の目標はそこだ。そして、最後には……。  まだどういった結末になるかは決まっていない。はじめは、きっちり問題が解決して終わりにしようという気持ちのほうが強かった。でも、おそらく、割り切れないなかで、小さな決着を見て終わるのではないかと考えている。  あと200枚くらい書くだろうけど、いつ書き上げられるのか。焦らずに進めたい。

年をとってキレやすくなるのは、どうして?

 年をとって「あの人、まるくなったね」と言われる人もいれば、キレやすくなってしまい、いわゆる「暴走老人」と化す人もいる。 丸くなったならば周りの人はほっとするのだけれど、どんどんキレやすくなっていく人の周りにいる人は心理的な負担がかさんでいくようになる。どうしてキレやすくなるのか。 人間、歳をとると、老化で脳が委縮していく。もちろん、それほど委縮しない人もたくさんいらっしゃるだろう。でも、老化による影響として、そうなりやすくなる。また、日常的な飲酒習慣によって脳が委縮するという論文を扱ったニュース記事を読んだこともあるのだけど、それが前頭葉前部で顕著だったならば、自制心が効きにくくなっていくことは想像に難くない。まずこれが、キレやすくなる理由のひとつとして考えられる。前頭葉前部の萎縮だ。 もうひとつ、キレるときに「頭に血が上る」と表現される。実際、かっかかっかとして血圧が高くなり血流が増すだろう。血流が増すと、脳に送られる酸素やエネルギー量が増える。そうすると、脳の働きがふだんよりも活性化する。キレやすくなる人はこの効果を無意識的に感じ取り、すぐに頭に血をのぼらせることをためらわなくなるのではないだろうか。年をとって、若い頃よりもあたまが働かなくなる。それが、血流の増加により全盛時に近づくことができる、つまり老いを少し緩和できる。いつまでも若くいたいのだ。キレて嫌な気持ちになりながら、同時にどこか快感を覚えているなんてことはないだろうか? だとすると、「いつまでも頭は若いままでいたい」ととくにいつも脳トレになるようなことなどをしていない人が望むと、キレやすくなるのかもしれない。 年をとってキレやすくなることは、ネバーギブアップが生む悪循環なのではないか、という主張なのです(肉体面に注意すると、血管が硬化するため、その影響だということもあげられるでしょうけれども)。 たぶん、ネバーギブアップの姿勢でいて差し支えのない状態の人もいるでしょう。どんな状態かというと、いつも頭をよく使うだとか、睡眠不足ではないだとか、飲酒や喫煙習慣がないだとか、食生活で超加工品をあまり摂らないだとかの状態ではないでしょうか。また、考え方や性格も影響すると思うのですよ。とすると、考え方や性格の基盤となる、その人の「世界観」や「人間観」が大切だということになる。 いつまでもあたまのなかは...

鬼滅の刃を観てきた。

  世界中で大ヒットしているという『鬼滅の刃 無限城編第一章』を昨日観てきた。11時10分開始の回である。公開されてから半年くらい経つのだから、上映回数が一日一回なのもしかたなし。  映画館までは車で片道1時間15分の道のり。比較的暖かな日だったので、道中は凍結した路面でもなく運転しやすくて助かる。着いたその地は江別市のイオンシネマだ。  『ズートピア2』が公開したばかりの土曜日だからだろう、フロアは子ども連れの家族で賑わっていた。早目に到着した僕は、壁面に並ぶ合成皮革の椅子の、端っこの席に目立たないよう行儀よく座ってスマホをいじっていた。すぐさま隣に小学校中学年くらいのふたりの子どもたちが座った。彼女らは目の前のガラステーブルに上映中のときのために買ったに違いないポップコーンの大きな箱を置き、白くおいしそうな粒をひとつふたつと口に運びつまみ食いをし始めている。僕のほうは中央競馬のレース情報を漁り続けていた。指でスマホ画面を叩いたり撫でたりしながら文字を追っているのだが、視界の端ではポップコーンに伸びる子どもの腕をぼんやり眺めてもいた。こういう待ち時間のつぶし方にはいまだに慣れない。  そうやって端っこの席になるべく気配を放たないように座り続けていた。夢中になっている振りをしているスマホの操作は、意思を持って選んでやっている行為のように見える工夫をしていてその実、困り果ててて四方八方ぐるりと見回したのち探し当てた逃げ道に転がり込んだにすぎない行為だ。やり過ごすにしても、はやる気持ちや待ちくたびれた気持ちを筒抜けにしてはいけない。社会というその水面に、たとえごく小さくても波紋を作らないようにするのがマナーであるのだと、いつしか周りから仕込まれていた。知らないうちに仕込まれていたんだろうという気がする。  入場開始のアナウンスの声が響く。余裕を見せるように立ちあがって入口へ向かうと、すでに長い列ができあがっていた。驚いたのが、列をなす人たちのポップコーンやチュロスを手に持っているその率。全体の9割以上は抱えていたり握っていたりしている。僕の知らない決まりがあったのではないか、と胸騒ぎがしたくらいだ。いやいやそんなバカな決まりなんてないだろう、と驚きを振り払い、4番スクリーンへと歩いた。  隣にはおよそ20代の女子二人組が座った。チケット購入時に、ここなら両隣りに...

ありふれた物語に回収される個別性。

胸が苦しいものだから休もうと思って、やることはあるのだけど一時自室で音楽を聴きはじめる。すると親父から、「おまえは気楽に過ごしてばかりだ」などと文句を言われて、ストレス解消どころかストレスを溜めることになる。 こういうケースは親父からに限りません。ありふれた物語に回収して決めつける行為はそこら中にあるものです。 ストレス源の人から、さらにこうしてストレスをかけられて、レッテルを貼られることは珍しいことではない。さらにいえば、たとえば家庭の問題を行政に相談しても、こちらがうまくいっていない様子をこちらが怠惰だからなどと「ありふれた物語」に回収して片付けられる場面だってある(というか、そのほうが多いかもしれない)。 100年前にアメリカでリップマンが『世論』にて主張したように、人は「思うように思う」し、それを「決めつける」。100年後の今も、そういった人間性の傾向は変わらずにある。 僕はそういうことを、ここ5,6年、さらにつよく感じさせられている日々を送っている。僕個人はやっぱり自分自身の個別性の物語のなかに住んでいるのだけれど、本来ならばマイノリティとして他者に判断されるに違いないそういった個別性の生き方を、そうとは判断されずにマジョリティの物語に回収されてしまいながら生きているから、そういった誤解や決めつけにさらされる苦しみを受け続けるハメになっているのかもしれない。 また、自身がマイノリティであることを認める強い意志というか覚悟というか、そういったものをしっかり持っていないと、マイノリティである自分自身ですらマジョリティであるのだという演技を、他者に合わせるため無自覚にしてしまったり、そうじゃなかったとしてもマジョリティの引力にひっぱられて自分でもどうだったかがわからなくなってしまったりしてその場を取り繕ってしまうものだと思う。 大変な目に遭っている人が状況をひっくり返して挽回するには、それまでの頑張り以上に、さらにさらに頑張って覆さないといけないという不条理な仕組みが厳然と存在するのがこの世界。マイノリティなところをそのままのものとして他者に認識してもらうには、多大な労力と多くの時間が必要になります。