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年をとってキレやすくなるのは、どうして?

 年をとって「あの人、まるくなったね」と言われる人もいれば、キレやすくなってしまい、いわゆる「暴走老人」と化す人もいる。 丸くなったならば周りの人はほっとするのだけれど、どんどんキレやすくなっていく人の周りにいる人は心理的な負担がかさんでいくようになる。どうしてキレやすくなるのか。 人間、歳をとると、老化で脳が委縮していく。もちろん、それほど委縮しない人もたくさんいらっしゃるだろう。でも、老化による影響として、そうなりやすくなる。また、日常的な飲酒習慣によって脳が委縮するという論文を扱ったニュース記事を読んだこともあるのだけど、それが前頭葉前部で顕著だったならば、自制心が効きにくくなっていくことは想像に難くない。まずこれが、キレやすくなる理由のひとつとして考えられる。前頭葉前部の萎縮だ。 もうひとつ、キレるときに「頭に血が上る」と表現される。実際、かっかかっかとして血圧が高くなり血流が増すだろう。血流が増すと、脳に送られる酸素やエネルギー量が増える。そうすると、脳の働きがふだんよりも活性化する。キレやすくなる人はこの効果を無意識的に感じ取り、すぐに頭に血をのぼらせることをためらわなくなるのではないだろうか。年をとって、若い頃よりもあたまが働かなくなる。それが、血流の増加により全盛時に近づくことができる、つまり老いを少し緩和できる。いつまでも若くいたいのだ。キレて嫌な気持ちになりながら、同時にどこか快感を覚えているなんてことはないだろうか? だとすると、「いつまでも頭は若いままでいたい」ととくにいつも脳トレになるようなことなどをしていない人が望むと、キレやすくなるのかもしれない。 年をとってキレやすくなることは、ネバーギブアップが生む悪循環なのではないか、という主張なのです(肉体面に注意すると、血管が硬化するため、その影響だということもあげられるでしょうけれども)。 たぶん、ネバーギブアップの姿勢でいて差し支えのない状態の人もいるでしょう。どんな状態かというと、いつも頭をよく使うだとか、睡眠不足ではないだとか、飲酒や喫煙習慣がないだとか、食生活で超加工品をあまり摂らないだとかの状態ではないでしょうか。また、考え方や性格も影響すると思うのですよ。とすると、考え方や性格の基盤となる、その人の「世界観」や「人間観」が大切だということになる。 いつまでもあたまのなかは...

鬼滅の刃を観てきた。

  世界中で大ヒットしているという『鬼滅の刃 無限城編第一章』を昨日観てきた。11時10分開始の回である。公開されてから半年くらい経つのだから、上映回数が一日一回なのもしかたなし。  映画館までは車で片道1時間15分の道のり。比較的暖かな日だったので、道中は凍結した路面でもなく運転しやすくて助かる。着いたその地は江別市のイオンシネマだ。  『ズートピア2』が公開したばかりの土曜日だからだろう、フロアは子ども連れの家族で賑わっていた。早目に到着した僕は、壁面に並ぶ合成皮革の椅子の、端っこの席に目立たないよう行儀よく座ってスマホをいじっていた。すぐさま隣に小学校中学年くらいのふたりの子どもたちが座った。彼女らは目の前のガラステーブルに上映中のときのために買ったに違いないポップコーンの大きな箱を置き、白くおいしそうな粒をひとつふたつと口に運びつまみ食いをし始めている。僕のほうは中央競馬のレース情報を漁り続けていた。指でスマホ画面を叩いたり撫でたりしながら文字を追っているのだが、視界の端ではポップコーンに伸びる子どもの腕をぼんやり眺めてもいた。こういう待ち時間のつぶし方にはいまだに慣れない。  そうやって端っこの席になるべく気配を放たないように座り続けていた。夢中になっている振りをしているスマホの操作は、意思を持って選んでやっている行為のように見える工夫をしていてその実、困り果ててて四方八方ぐるりと見回したのち探し当てた逃げ道に転がり込んだにすぎない行為だ。やり過ごすにしても、はやる気持ちや待ちくたびれた気持ちを筒抜けにしてはいけない。社会というその水面に、たとえごく小さくても波紋を作らないようにするのがマナーであるのだと、いつしか周りから仕込まれていた。知らないうちに仕込まれていたんだろうという気がする。  入場開始のアナウンスの声が響く。余裕を見せるように立ちあがって入口へ向かうと、すでに長い列ができあがっていた。驚いたのが、列をなす人たちのポップコーンやチュロスを手に持っているその率。全体の9割以上は抱えていたり握っていたりしている。僕の知らない決まりがあったのではないか、と胸騒ぎがしたくらいだ。いやいやそんなバカな決まりなんてないだろう、と驚きを振り払い、4番スクリーンへと歩いた。  隣にはおよそ20代の女子二人組が座った。チケット購入時に、ここなら両隣りに...

ありふれた物語に回収される個別性。

胸が苦しいものだから休もうと思って、やることはあるのだけど一時自室で音楽を聴きはじめる。すると親父から、「おまえは気楽に過ごしてばかりだ」などと文句を言われて、ストレス解消どころかストレスを溜めることになる。 こういうケースは親父からに限りません。ありふれた物語に回収して決めつける行為はそこら中にあるものです。 ストレス源の人から、さらにこうしてストレスをかけられて、レッテルを貼られることは珍しいことではない。さらにいえば、たとえば家庭の問題を行政に相談しても、こちらがうまくいっていない様子をこちらが怠惰だからなどと「ありふれた物語」に回収して片付けられる場面だってある(というか、そのほうが多いかもしれない)。 100年前にアメリカでリップマンが『世論』にて主張したように、人は「思うように思う」し、それを「決めつける」。100年後の今も、そういった人間性の傾向は変わらずにある。 僕はそういうことを、ここ5,6年、さらにつよく感じさせられている日々を送っている。僕個人はやっぱり自分自身の個別性の物語のなかに住んでいるのだけれど、本来ならばマイノリティとして他者に判断されるに違いないそういった個別性の生き方を、そうとは判断されずにマジョリティの物語に回収されてしまいながら生きているから、そういった誤解や決めつけにさらされる苦しみを受け続けるハメになっているのかもしれない。 また、自身がマイノリティであることを認める強い意志というか覚悟というか、そういったものをしっかり持っていないと、マイノリティである自分自身ですらマジョリティであるのだという演技を、他者に合わせるため無自覚にしてしまったり、そうじゃなかったとしてもマジョリティの引力にひっぱられて自分でもどうだったかがわからなくなってしまったりしてその場を取り繕ってしまうものだと思う。 大変な目に遭っている人が状況をひっくり返して挽回するには、それまでの頑張り以上に、さらにさらに頑張って覆さないといけないという不条理な仕組みが厳然と存在するのがこの世界。マイノリティなところをそのままのものとして他者に認識してもらうには、多大な労力と多くの時間が必要になります。

日々。そして秋華賞。

  在宅介護をしながらでも少日勤務が可能な会社があり、そこで働きながら原稿も少しずつ書きつつ(直しばかりで進んでいきませんが)の毎日です。介護、家事、勤務、原稿、そして土日は競馬をみて、たまにパチンコに行ったり、SNSを楽しみ、読書をして内容をまとめ、疲労がどっしりと溜まって早寝遅起きしたり。 そんな本日は、競馬のG1レースがあります。若駒の牝馬たちが駆ける三歳限定G1レースの三冠最終戦、秋華賞。 ◎カムニャック ○ケリフレッドアスク ▲テレサ △ヴーレヴー 予想は上のようになりました。秋華賞って上位人気の馬で決まる傾向の強いレースなんですが、本命のカムニャック以外は人気薄です。ヴーレヴーにいたっては18頭中16番人気(当日12:00現在)。それでも少額で馬券を購入しまして、どきどきわくわくを楽しもうと思います。

続・慢性期にある精神疾患の人たちを地域で看るようにする、というニュースから。

  前に書いたが、慢性期にある精神疾患の人たちを地域で看るようにする、というニュース。このあたり、「社会福祉」へと範囲を広げて職場で先輩とちょっと話をした。  僕としては「人件費のコストカット」という観点だったのだけれど、そもそも社会福祉の業界でかなり人不足になっていることを先輩から教えられた。まあ、どこの業界でも人不足は今、よく言われている。けれど、社会福祉の分野も相当だ、と。  まず若者が定着しない。それ以前に、社会福祉の業界へ応募する若者が少なくなった。とりわけ地方の社会福祉においては、若者が経験を積んだのち、より都会の方へと出て行ってしまう傾向が強いのだ、と。これはアジアから働きに来ている人たちもそうで、はじめは地方の社会福祉施設で働いてくれる。それも勤勉で優秀だったりするのだけれど、やっぱり日本人の若者のように、より都会化した街へと移っていくそう。  実は、僕の働きだした場所が社会福祉施設なのだ。事務職の先輩は、事務職であるにも関わらず現場へと一日中出向いていることが多い。これも、人不足のためだ。  こういった状況を鑑みて、慢性期の精神疾患の人たちを含む、看護や介護が必要な人たちを地域で看るという方針に決まったのかもしれない。現代思想の分野で、精神疾患を生むのは社会のありかたからの影響なのだから、みんなで精神を病んだ人たちを看ていくべきだ、という考え方があるけれど、このニュースになっている件に関しては、残念ながらそうではなさそうだ。  今読んでいる『近江商人の哲学』にちらっと書かれていた文言に、イタリア人は英米人のような効率主義ではない、という主旨のものがあった。イタリアでは精神病棟が撤廃されているはず。地域で看るようにシフトチェンジがはかられていて、それは効率主義ではないから移行できたのかもしれない。日本も英米のような効率主義的傾向が強いところがある。  そんな効率を重視する国で、地域が一体となって社会福祉をしていく。人権尊重の意識からきたものではないのだから、はたして根づくだろうか? と懐疑的な目で見てしまう。どこまで折衷できるか。  「英米の効率主義」⇔「イタリア的な人情のある主義」という構図にしてみる。二分法思考のように、100:0と極端な選択をするのではなく、75:25でも、55:45でも、まあどんな割合がよいのかはわからないけれど、それでも少し...