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9月, 2025の投稿を表示しています

素っ裸を社会は禁じる。

  素っ裸で歩いていたら捕まる。自然な姿なのに、自然な姿を社会は禁じる。「自然でいてはいけません、それが社会です」。ここから考えていくと、人間の本来性からくる自然な言葉も社会は禁じるのだろう。  ということはつまり、禁じられた言葉こそ、人間本来の言葉だったりするのかもしれない。単純なところだと「さぼりたいわー!」「ごろごろしよう!」などの人間のネイキッドな言葉を、社会は嫌いがちかもしれない。こういった言葉を許す心性は、社会性ではなくて人間性から来るものだったりしないか。  社会性とはなにか、人間性とはなにか。そういったことを少しずつでも掴んでいくためのヒントに、こういった視点はなると思う。

Cook do 四川風麻婆豆腐が教えてくれる、消費社会のマキシミン原則。

  「Cook do 四川風麻婆豆腐」を使って作っていると、裏書きに、「たれを入れるときには火を止めてください」とあるのですよ。これはまごまごしてしまったら焦げるからですか? 僕は弱火にして投入できるし大抵の人は焦げ付かすことはないように思う。で、ここで学べることは、つまり、消費社会は功利主義(最大多数の最大幸福を優先する主義)ではないということ。  まあ、火を止める理由は僕の推測によるところだから「(仮)」としての考察ではあります。功利主義だったら、「そのままたれを投入してください、それで失敗するごく少数の人たちのことは想定していません」となるでしょう。その少数である焦げ付かせてしまうかもしれない人々想定して現実にはカバーしているのだから、消費社会にはマキシミン原則(最不遇の立場を最大に改善すること)が適用されているのではないですか。  これは日本だからこそなのか。そのあたりはまったくわかりませんが、「こういうの、好いところじゃないか」とちょっとうれしくなりました。こうやって考えてみるまでは、なんでもなかったことだったんですけどね。

慢性期にある精神疾患の人たちを地域で看る方針へ転換するというニュースについて。

 精神科の入院 慢性期は対象外検討、というニュースがありました。入院は急性期の患者か、急性期を越えても早期退院を目指す患者を中心とするらしく、寛解でもなく慢性状態でいる人たちは在宅で看ましょう、もしくは施設に入所しましょう、ということになるのでしょう。たとえばヨーロッパでは地域で看る方向へと、ずっと前から舵を切っている。 これ、地域で看るために「訪問看護を強化」とありましたが、そこのところはマストであるばかりでなく、地域共助の面こそを開拓していって欲しい。つまりは包摂していくための、精神疾患に対するいろんな意味での理解を促進していくことが望まれる。精神疾患はどうやって発病するものと考えられているのか、患者一人ひとりの個別性はありますが大きく見てどう対応するとベターなのか、多くの人が不安に思うことであろう「精神疾患患者がどれくらい暴力性を発揮しうるものなのか」についてなどなど。 とくに偏見や差別について踏み込んでこその改革にしないといけない。そこを考えないで仕組みを作ってしまったなら、完全に失政だと思う。 効率性重視の社会に適応しがたかった人たちが精神に不調をきたしたりしたことは多かっただろうわけで(家庭環境とか時代性の影響も強くあるだろうし、遺伝的要素が現今の社会体制と噛み合わないこともあげられるでしょうけれど)、そんな単一の価値観を否定していけるかどうかがほんとうは大きなポイントになるんです。政府・行政はやりたがらないだろうけど。でも、やるんだ、やらないといけないんだぞ、と強くこの場にて主張します。 やるならただのコストカットにするんじゃないよ、とね。(この案件の起点はコストカットにあるだろうから)

失くしていく進行形の、声として。

 「社会性」とは「客観性」とも言える。  唐突に、そんなことを考え始めていた。 「社会性。どんどん無くなってきているなあ、僕」  要介護の母と不安障害を治療しない父への対応をしながらの同居生活があり、大きな声で周囲には言うことはないのだけれど、自分がやりたい「原稿を書く」という金銭とは無縁の仕事がある。これらの両立は、こんな言い方をすると大げさに感じられるのだろうが、まるで綱渡り。臨機応変にもほどがあるよ、とこぼしたくなる日も多い。  どこかに勤めてみることを考える。「お金」と「社会性」のためだ。 「社員」なんてものは向かない。勤めの経験が乏しく、そのため手の抜きようがわからないまま歳を重ねてきてしまったから、8時間なり9時間なりの勤務時間のなかに一日分かそれ以上のエネルギーを出し切って、クソ真面目の馬鹿として消耗しきってしまいがちだ。  そういった労働に拘束される時間の外で、僕はどうしても、なんとしてでも原稿を書きたい。これまでを振り返ると、原稿書きに限らずではあるけれど、何かを創っていないとどうやら心身の調子が悪くなる傾向がある。それなりに年数を生きてきて、わかってきたことだったりはする。  このあいだ、短時間で少日出勤のパート労働の求人を見つけた。面接を受けた。このうえないほどのアウェイ感だった。職歴がないから、どうにも話にならない。沈黙ばかりの場にいることになった。 「社会性」とは「客観性」。  客観性を欠いて生きているのは、弱い生き方でもあると思う。たとえば自制とか節制って、客観的な見方というものから大いに影響されるものだから。  他人の言動や表情などを見て、その場の空気や嗜好性を感じ取る。たとえばなにか、ある例があったときに、どういった考え方や意味の取り方を多くの人たちはするのか。世代・年齢層によるものだったりもするけれど、世間的な判断の仕方ってだいたい、今いったいどうなのか。そういったことにも疎くなってきている。  違った角度で言うと、自分を映す鏡の存在がぼんやりしているのだ。鏡となる他者と接することがないからだ。強がって、他者からの視線から解放されている、とうそぶくと「自由だね」なんて羨ましがられるだろうくらいに聞こえは良いものになるのだろうが、実際は主観しかなくて自堕落になっているものなのだ。人のふりを見て我がふりを直すこともできないし、さ...