失くしていく進行形の、声として。
「社会性」とは「客観性」とも言える。
唐突に、そんなことを考え始めていた。
「社会性。どんどん無くなってきているなあ、僕」
要介護の母と不安障害を治療しない父への対応をしながらの同居生活があり、大きな声で周囲には言うことはないのだけれど、自分がやりたい「原稿を書く」という金銭とは無縁の仕事がある。これらの両立は、こんな言い方をすると大げさに感じられるのだろうが、まるで綱渡り。臨機応変にもほどがあるよ、とこぼしたくなる日も多い。
どこかに勤めてみることを考える。「お金」と「社会性」のためだ。
「社員」なんてものは向かない。勤めの経験が乏しく、そのため手の抜きようがわからないまま歳を重ねてきてしまったから、8時間なり9時間なりの勤務時間のなかに一日分かそれ以上のエネルギーを出し切って、クソ真面目の馬鹿として消耗しきってしまいがちだ。
そういった労働に拘束される時間の外で、僕はどうしても、なんとしてでも原稿を書きたい。これまでを振り返ると、原稿書きに限らずではあるけれど、何かを創っていないとどうやら心身の調子が悪くなる傾向がある。それなりに年数を生きてきて、わかってきたことだったりはする。
このあいだ、短時間で少日出勤のパート労働の求人を見つけた。面接を受けた。このうえないほどのアウェイ感だった。職歴がないから、どうにも話にならない。沈黙ばかりの場にいることになった。
「社会性」とは「客観性」。
客観性を欠いて生きているのは、弱い生き方でもあると思う。たとえば自制とか節制って、客観的な見方というものから大いに影響されるものだから。
他人の言動や表情などを見て、その場の空気や嗜好性を感じ取る。たとえばなにか、ある例があったときに、どういった考え方や意味の取り方を多くの人たちはするのか。世代・年齢層によるものだったりもするけれど、世間的な判断の仕方ってだいたい、今いったいどうなのか。そういったことにも疎くなってきている。
違った角度で言うと、自分を映す鏡の存在がぼんやりしているのだ。鏡となる他者と接することがないからだ。強がって、他者からの視線から解放されている、とうそぶくと「自由だね」なんて羨ましがられるだろうくらいに聞こえは良いものになるのだろうが、実際は主観しかなくて自堕落になっているものなのだ。人のふりを見て我がふりを直すこともできないし、さまざまな基準感覚が恣意的になってしまいがちになっている。
では、他律が不可欠、なのか。いや、他律なんてQOLを下げるだけじゃないか。お仕着せで動かされて、型にはめられて、嫌な思いをしてしまう。そう思うほうなのだけれど、健康的にシャキっとしていれば他律に従うことなく自律でうまくやっていけるものなのに、その自律が賢く働かなくなるのが、社会性が希薄になることで起こるよくない作用だ。
楽しむだけの、コンパニオンシップな友人たちとの関係だけでは足りない。外食店や量販店などをよく使うしスタッフに声をかけることにも頓着しないから、というのでも足りない。観光を味わうことでも足りない。
それが、社会性。仕事を共にする、という関係で培われる種類の社会性。そういった社会性が地に足の着いた客観性を補強するのではないか、と考えが行き着く。
ずっと気持ちは、「仕事がしたい」だ。「勤務する」という方法ではほとんどうまくいったことがなかったけれど、仕事はしたい。もしも原稿仕事が職業になるのならば、とても良い。
意識下で渇望しているのは社会性であり、渇望の源泉にあるのは危機感であり、それは不安感だ。おそらく、知性のバランスを保ちたいのに、という不安感。
職人的に、ひとりで原稿仕事をするのは好きだ。だけれど、誰ひとりと関わることがない、自分ひとりっきりで完結してしまう仕事状況であるというのは、それに費やす時間の分だけ社会性を失っていくものだと思う。
僕もやっぱり人間なのだ、と痛いくらいの重いなにかがのしかかってくる。それは、背負わなければいけないものなのだ、おそらく。
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