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ありふれた物語に回収される個別性。

胸が苦しいものだから休もうと思って、やることはあるのだけど一時自室で音楽を聴きはじめる。すると親父から、「おまえは気楽に過ごしてばかりだ」などと文句を言われて、ストレス解消どころかストレスを溜めることになる。 こういうケースは親父からに限りません。ありふれた物語に回収して決めつける行為はそこら中にあるものです。 ストレス源の人から、さらにこうしてストレスをかけられて、レッテルを貼られることは珍しいことではない。さらにいえば、たとえば家庭の問題を行政に相談しても、こちらがうまくいっていない様子をこちらが怠惰だからなどと「ありふれた物語」に回収して片付けられる場面だってある(というか、そのほうが多いかもしれない)。 100年前にアメリカでリップマンが『世論』にて主張したように、人は「思うように思う」し、それを「決めつける」。100年後の今も、そういった人間性の傾向は変わらずにある。 僕はそういうことを、ここ5,6年、さらにつよく感じさせられている日々を送っている。僕個人はやっぱり自分自身の個別性の物語のなかに住んでいるのだけれど、本来ならばマイノリティとして他者に判断されるに違いないそういった個別性の生き方を、そうとは判断されずにマジョリティの物語に回収されてしまいながら生きているから、そういった誤解や決めつけにさらされる苦しみを受け続けるハメになっているのかもしれない。 また、自身がマイノリティであることを認める強い意志というか覚悟というか、そういったものをしっかり持っていないと、マイノリティである自分自身ですらマジョリティであるのだという演技を、他者に合わせるため無自覚にしてしまったり、そうじゃなかったとしてもマジョリティの引力にひっぱられて自分でもどうだったかがわからなくなってしまったりしてその場を取り繕ってしまうものだと思う。 大変な目に遭っている人が状況をひっくり返して挽回するには、それまでの頑張り以上に、さらにさらに頑張って覆さないといけないという不条理な仕組みが厳然と存在するのがこの世界。マイノリティなところをそのままのものとして他者に認識してもらうには、多大な労力と多くの時間が必要になります。